chudokux’s blog

自己否定まみれの主婦のココロ整理日記。

自己否定まみれ主婦のオノレ解放日記

インフルエンザ考_03

そんな私だったのですが、ある時、ふと思ったのだ。

 

私は、医者に自分の子供の命の責任を取らせようとしているのか?

 

医者は医者なりに全力を尽くしている(はずだ)。私の目には、機械のように「はい、インフルですね。タミフル飲んでね。飲みきってね、よろしくー」と自動的に処方しているように見えても、きっと、それは彼の全力なのだ。そして、「え?注射打ってない?はあ(ため息)、そういう人がいるから感染が広がるのよねえ、インフルってかかると苦しいのよ?子供がかわいそうに」とかなんとか、切れ目なくやってくるインフル患者に疲れ切っていてイヤミの一つでも言いたくなってしまうお医者さんの気持ちだってわからんでもない。

 

だけど、医者にかかっている時の親の気持ちは「恐怖心でいっぱい」なのだ。もちろん、そうじゃない人もいるだろう。でも、恐怖心でいっぱいな私は、そういう医者の言葉にいちいち傷ついて、余計に、恐怖心を募らせたものだ。そして、インフルの危険性も、注射の効果も、逆にその副作用も、タミフルの効果も、逆にその危険性も、ちゃんとわかっていて、わかった上で本当の「診断」をしてくれるお医者さんっていないのかな…と思って、一時期、小児科ジプシーになった。親の恐怖心に寄り添った上で、いろんな見解を理解した上で、その上で正しい判断をくれるお医者さんっていないのだろうかと、小児科を見つけては訪れる日々を過ごす。

 

それは、私が、私の中にある「恐怖心」から目をそらし、その責任を医者に求めている日々でもあった。

 

結局、私は、自分の中の「恐怖心」の責任を医者に取らせようとしていただけなのだ。だけど、長男が喘息で入院したり、入院後に小児科の方針で息子を薬漬けにしたり、ステロイド漬けにしたり、小児科に1週間に1回通う、という日々を過ごしたのち、やっと、私は、思ったのだ。「どんなに素晴らしい医者だって人間なのだから判断を間違えることがある。それならば、私は、自分の中の動物的勘を信じて、自分が自分で子供を守るしかないのではないか」と。それは、子供を守る覚悟というよりかは、

 

自分の判断に責任を持つ覚悟

 

であった。医者がどんな理念でどんな信念で患者を見るのかは、知らない。それは、私がどうにかできる問題ではない。でも、数ある選択肢の中で、それを選ぶのは、親である私の責任だ。それは、とっても怖いことである。自分で自分の責任をとるのは、容易い。だけど、子供の「命」の責任をとるというのは、本当に本当に、心から怖いことなのだ。

 

だけど、その「恐怖心」に向き合う以外に、その「恐怖心」を克服する術はない。その恐怖心の責任を外に求めても、全く、意味のないことなのだ。たとえ、医者の判断で子供が死んだとして、その責任を医者に求め、医者を責めて責めて生きることだって同じように地獄である。それならば、自分が「選んだのだ」と腹をくくって毎日を過ごし、その結果を正面から受け入れる、という覚悟をした方がどれだけ楽か。

 

自分で責任を取ること、それが、他の人に責任を求めることよりもずっと楽だ。なんて、怖がりでビビリで卑小な自分としたら信じがたい結論なのだが、「子供がインフルエンザにかかることの恐怖心」に向き合った結果、そういう気持ちでいることが一番しっくりくるようになったのだ。医者は子供の症状に向き合うもので(それがどんな理念であろうと)、親の恐怖心を埋める存在ではないのだ。私が持っていた恐怖心は医者が「大丈夫ですよ、大したことないですよー」とか言っておさまる類のものではない。もっとベッタリと陰湿に深く深くココロの奥底にへばりついていたものなのだ。

 

そんなものに医者が向き合う義務はないなあと、普通に思えるようになった時はじめて、私は、とても楽になった。今年は、子供が2人インフルエンザにかかったのだが、もう、堂々としたものだ。大丈夫、お母さんが信じているから大丈夫。そう言って、子供の背中をさする私の中に、子が死ぬかもしれないという恐怖心以外の不純物は、ない。

 

そうすると、不思議なことに「うちの子は大丈夫。絶対に死なない」という、本当に、全く根拠のない自信が湧いてくるのだ。根拠がないだけに、人に薦めることはできないが、その根拠のなさが、かえって、私の心を強くする。シンプルな恐怖心は、より動物に、本能に、近くなるのかもしれない。

 

「今、私が大丈夫な気がするってことは、大丈夫なんだろうな」と根拠なく思う。完全に動物なのだろう。危険だと思ったら、動物としてちゃんと対応できる。そういう自分に対しての信頼が生まれてきたのだ。だから、心の奥底で大丈夫と思っているうちは、無駄に心配しないでおこうと自然に思えるようになった。無駄な心配をしないって、なんて楽なんだろう!

 

まあ、普通の親御さんは、ここまで自分を追い詰めないんのかもしれない

 

そんな自分にもうんざりなんですが。

 

でも、私と子育ての間には、数多くの「不安」が横たわっているのは事実なのだ。
それが、私を苦しめていることを知っているので、もう、諦めて、向き合っていくしかない。それを一つ一つクリアにしていくことが、自分を見つめることにもなり、このブログを始めた意味でもあるので、「なんだかなあ」と思いながらも書いてみました。

 

 

長かったな!

 

 

インフルエンザ考_01

インフルエンザ考_02

 

 

インフルエンザ考_02

インフルエンザに怯えなくなったというのは、インフルエンザが怖くないというワケではなくて、ただ単に、「なるようにしかならない」と思えるようになったからだ。自分の選択に責任を持つ覚悟ができたのだ。

 

子供を失うという恐怖心の底には、子供を亡くしたら悲しくて悲しくて生きていけるだろうかという根本的な気持ちのほかに、「自分が間違ったら嫌だな」という恐怖心もあったのだ。自分の選択を間違えて子供を亡くした場合、その自分責めに耐えられるだろうか。という恐怖心は、子供が死ぬという恐怖心とどっこいどっこいのリアルさで自分を支配する。

 

というのも、インフルエンザにまつわるエトセトラには、いろんな考え方信念理念などがつきまとっておるのです。インフルエンザの予防接種は打つべきか打たぬべきか。解熱剤は飲ませるべきか飲ませないべきか。タミフルは飲ませるべきか飲ませないべきか。リレンザは?他の抗インフルエンザ薬は?

 

まあ、それはそれは、単なるシロウトには判断できようもない事柄が、インフルエンザにはくっついているのだ。癌とかもそうですけどね。はっきり言って

 

わっかんねえよ

 

なんですよね。だって、ただの一般人だし。調べても調べても、どいつもこいつも本当のことを言っているように書いているし。注射を打つべきだという主張も分かるし、注射の副作用ってやばいよって意見にも納得する。タミフルですぐ治ったって人もいるしタミフル飲んだから副作用で死んでしまったという人もいる。もう、正直、どんなにこの小さな脳みそで考えたってわかるワケがないのだ。ただ、わかるのは

 

みんな、子供を守ろうとしている

 

ということだけだ。どの立場の人も、子供を必死に守ろうとしている。それだけは確かなのだ。タミフルをやたら処方する小児科医だって、子供を殺そうとしている人なんて1人もいないはずなのだ。そのことを、腹の底から理解した時、初めて、私は

 

私は、私の選択に責任を持とう

 

そう思えるようになった。予防注射を打たないことで小児科医に怒られると本当に怖かった。予防注射を打たなかったという自分の選択で「子供が死んだらどうしよう。私は、その事実に耐えられるだろうか」と恐怖心でがんじがらめになってしまった。シロウト判断で、自分のおかしな価値観で、子供を危険にさらしているのかもしれない、という恐怖心は、カラダの奥底が芯からじわじわと凍っていくような、感覚だった。

 

一方、予防注射の副作用に苦しんでいる人も世の中にはいるし、タミフルを飲んで子供を亡くしたという人もいる。もう、何が何だかわからない。どっちに転んでも、どっちを選んでも

 

恐怖しかない

 

そのことに気づきながらも、私は、ただただ、高熱にうなされる子供の背中の必死に撫でて「頑張ってね、お母さんは一緒にいるよ、大丈夫だよ」と声をかけ続けながら、泣くしかなった。

 

長すぎるので次の記事へ

 

 

インフルエンザ考_01

 

 

 

インフルエンザ考_01

巷では、未だにインフルエンザが猛威をふるっている。

 

わたしは、子供が小さい頃は、インフルエンザが怖くてしょうがなかった
聞くところによると、インフルにかかると下手すりゃ「インフルエンザ脳症」とかいう恐ろしげなものになって最悪、死に至るというではないか

 

インフルエンザなんて、毎冬、バカスカ流行し、学級閉鎖になんかになった日には、半分以上の人間が感染するような大ポピュラーな病気である。そんな有名な病気に普通に死が潜んでいるなんて、親にとっては大変な恐怖である。親ってものは(というかわたしは)、子供が高熱を出しただけで「死ぬんじゃないか」なんて言葉にはしないけれど(怖いから)、心の奥底で、ひっそりこっそりと怯えるものだ。

 

「死ぬんじゃないか」なんて思ったら本当に死んでしまいそうだから、絶対に口には出さないけれど、口に出せないからこそ、真夜中に40度を超えている子供の異様に熱い体を必死で撫でている時の孤独感と恐怖感は、ちょっと言葉では表現できない。

 

特に、うちには3人子供がいるのだが、上2人は、ただの風邪でもフッツーに40度を超える。39度だと「ああ、そんなに高くなくて良かった。」と思うし、38度なんて「微熱かな」と安心するぐらいだ。なので慣れるまでは、毎回毎回、恐怖であった。

 

そもそも、子供が生まれた時、何よりも1番始めに思ったのは、

「怖いな」

であった。失うものができてしまった恐怖心にがんじがらめになってしまったのだ。かわいいだとか愛しいだとか、そんなことの前に感じたのが恐怖心だったというのは、私にとって象徴的な出来事だ。こういう自分の心の傾向が何よりも自分自身を縛り、苦しめているのだというのがわかったのは、ごく最近である。

 

この世には「不安」がベースなのか「愛」がベースなのか、どちらかしかない。

 

というのは、まあ、宗教でも心理学でもスピリチュアルな本とかにも書いてあることなのだけれど、私の感情のベースほとんどは「不安」であった。自分の気持ちに蓋をし続けて生きてきた私は、年齢を重ねるたびに「不安」を増やしていった。それが、まるで、私を守ってくれる武器かのように、私は大切に、それを抱きしめて生きてきた。

 

というわけで、そんな私の子育てのベースには当たり前のように「不安」が90%以上を占めていたわけなのですが、今は、それでも80%ぐらいに?減ったのかな?わからないけれど、インフルエンザに怯えることは無くなってきたのだ。

 

 長いので次の記事へ

 

 

 

 

 

男もすなる日記といふものを

女もしてみむとてするなり

 

というワケでもないのですが、
気兼ねなくオノレの心情を吐露する場所が欲しくて、
初めてのブログに挑戦です。

 

SNSで何回か長文投稿してみたこともあるのですが、まあ、なんでしょうね?

 

ちょう恥ずかしい

 

SNSでの長文投稿の鬱陶しさは、やっぱり、あのタイムラインにある。
ブログだったら読みたくなきゃ読まなきゃいいじゃん!
読んで欲しいけどね?でも読まなくていいんだからね?本当にね?
という往生際の悪い言い訳が自分に効くのですが、
SNSは、イヤでも目に入る、あの仕組みゆえに
オノレの心情吐露系の「恥ずかしさ」がたまらない。

 

それでも時々、私の中の男前が「大丈夫。書いちゃいなさいよ。
嫌われたっていいじゃないか。僕が守ってあげるから」とかなんとか
ささやくもんですから、「あら、そう?」なんつって勢い余って、
オノレの心情を吐露するわけですね。
SNSに。長文で。なんだか、うっとおしいやつをがっつり。

 

その時は、舞い上がっているのですが、10日後ぐらいに
私の中の男前はどこにやら。見る影もなくなり、
恥ずかしさの大波に巻き込まれ、消えて無くなってしまいたくなる。
「なんだよ、守ってくれるんじゃなかったのかよお」
なんて弱々しく愚痴りながら、ひたすら恥ずかしさに縮こまるわけです。

 

でも、そんな私は、実は、恥を晒して生きる人間になりたいのだ。

 

好き好んで恥を晒したいわけではないのですが、
人に見せたくない自分があればあるほど、自分を苦しめていることに
最近気がついた私は、恥を晒してもいっそ清々しく生きている人たちに
どうしようもなく惹かれるようになった。

 

ジョンレノンとかね?

 

誤解を恐れずに言えば、ジョンレノンなんて才能なかったら、
あんなに恥ずかしい人いるのかなと思うぐらい恥を晒して生きていたように
見える。堂々と生き方を間違え、間違ったら間違った度に修正をかまし、
悪びれない、あの、偽らない正直な姿勢が、胸に迫るようになったのは
私が年齢を重ねたからか?

 

昔は、間違えないスマートさに惹かれてたけれど、今は、ちゃんと間違える人、
それを隠さない人に惹かれてしょうがない。きっとわたしは、
自分で自分を囲っている「柵」を外していきたいのだ。
昔は、そんなこと書くことすら、恥ずかしかった。
なんだ「柵」って。お前は詩人か。と

 

でも、しょうがない。私の中には、陳腐な三流詩人がいる。

 

 それをココで泳がして、自分でも見たくない自分に向き合い、
「柵」を外した後に見える景色を見たい。
その場所に広がる空を見上げたい。

 

それがブログを始めた理由です。